音楽が生活にあるということ

先日、楽器の学習についての研究を紹介した動画を見ました。

そこで取り上げられていたのが、これから楽器を始める子どもたちを長い期間追った研究です。

7〜9歳の子ども157人に、楽器を習い始める前の段階で「これからどのくらい長く楽器を続けていると思うか」を尋ね、その後の練習や演奏、さらに約10年後まで音楽を続けていたかを見ていったものだそうです。

その中で印象に残ったのが、始める前から「長く楽器を続けている自分」を思い描いていた子どもたちのことでした。

特に、そうしたイメージを持ちながら最初の数年間によく練習していた子どもたちは、その後の演奏の達成度も高く、音楽を長く続ける傾向が見られたそうです。
研究:Identity and practice: The motivational benefits of a long-term musical identity

もちろん、

「将来も楽器を続けている自分を想像すれば、長続きする」

という単純な話ではないと思います。

僕がむしろ気になったのは、

なぜ、その子たちはそんな未来を自然に思い描くことができたんだろう?

ということでした。

将来の自分は、どこから見えてくるのだろう

これまで子どものレッスンもしてきましたが、家庭の中で普段から音楽を聴いたり、楽器を演奏したり、演奏会に足を運んだりと、生活の中で音楽に積極的に触れている場合と、そうした機会があまりない場合では、子どもが音楽へ向かう様子に違いを感じることがあります。

もちろん、すべての家庭に当てはまる話ではありません。

親が楽器を演奏できるかどうかも、それだけで決まるものではないと思います。

それよりも、

家の中で音楽の話をすることがある。
好きな音楽を一緒に聴く。
楽器の音が聞こえることがある。
演奏会へ出かけることがある。
うまくできないところを何度も繰り返す姿を見ることがある。

そんなふうに、音楽や楽器演奏がどれくらい日常の風景として存在しているか。

こちらのほうが大きいのではないか、と感じています。

少し調べてみると、音楽心理学でも、家庭の中で音楽とどう関わっているかを扱った研究がありました。

親に専門的な音楽教育の経験があるかどうかだけではなく、親子で歌ったり、楽器や音の出るものに触れたり、いろいろな音楽を聴いたり。

そうした普段の暮らしの中にある音楽との関わりを、「家庭の音楽環境」として見ていく考え方です。
研究:Music@Home: A novel instrument to assess the home musical environment in the early years

そう考えると、「音楽が身近にある」というのは、家にピアノが置いてあるとか、週に一度レッスンへ通っているということだけではなさそうです。

本を読むことや、体を動かすことにも

これは音楽だけの話なのかなと思って調べてみると、ほかの分野にも似た話がありました。

たとえば読書。

日本の親子を長い期間追った研究では、親が本を読む量と子どもが本を読む量には関係があり、親の読書量が変わると、子どもの読書量にも同じような変化が見られたそうです。
研究:縦断データを用いた文化資本相続過程の実証的検討

別の研究では、家に本があることだけでなく、読み聞かせをしたり、一緒に本屋や図書館へ行ったりするような、親子で本に触れる時間も調べられています。

運動についての多くの研究をまとめた分析でも、親自身が体を動かしていることと子どもの運動には関係がありました。

ただ、それだけでなく、一緒に体を動かしたり、運動できる機会をつくったりするような関わりも大きかったようです。
研究:Parental correlates in child and adolescent physical activity: a meta-analysis

こういう研究を見ていると、

「本を読みなさい」
「運動しなさい」
「楽器を練習しなさい」

と子どもに何かを求めることとはまた別に、

その行為が周りの大人の生活の中に、自然に存在していること

にも、何か意味があるように思えてきます。

生徒さんから教えてもらった言葉

少し前に、生徒さんから小説の一節を教えてもらったことがありました。

宮下奈都さんの『羊と鋼の森』です。

そこには、音楽は誰かと競うようなものではなく、ホールで大勢の人と聴く音楽にも、すぐ近くで演奏者の息づかいを感じながら聴く音楽にも、それぞれ違ったよろこびがある、ということが書かれています。

朝日と夕日の美しさに優劣をつけられないように、音楽も「どちらが上か」と比べるものではない。

そして最後に、

「多くの人にとっては価値のないものでも、誰かひとりにとってはかけがえのないものになる。」

という言葉が続きます。

この一連の文章を読んだとき、かなり心を動かされました。

音楽を続けていると、どうしても上手い、下手、プロ、アマチュア、大きな舞台、小さな場所、といった比較が目に入ります。

でも、音楽のよろこびは、そういう物差しだけでは測れない。

誰かにとっては何でもない一曲が、別の誰かにとってはずっと忘れられない音楽になることもある。

生徒さんからこの文章を教えてもらったことも含めて、音楽が人の生活の中にあるということを、あらためて考えるきっかけになりました。

ただ、そこに音楽があればいいわけでもない

一方で、「音楽が身近にあればいい」というほど単純でもないのだと思います。

現代を代表する世界的なピアニスト、マルタ・アルゲリッチには三人の娘がいます。

その一人、映画監督のステファニー・アルゲリッチは、自身が制作した母についてのドキュメンタリー『Bloody Daughter』の中で、世界的な音楽家である両親のもとで育ったことをかなり率直に描いています。

両親が音楽への強い情熱にのみ込まれ、家庭生活に残される余地が少なく感じられたことや、家族そろって食事をしたり、公園へ出かけたりするような普通の時間への憧れがあったことも語っています。
『Bloody Daughter』プレス資料

また、自分自身は音楽家になりたいと思ったことはなかったそうです。

アルゲリッチ本人も、演奏会を前に強い緊張を抱えることで知られています。ドキュメンタリーでも、舞台に出る直前の不安と、その姿を長くそばで見てきた娘の様子が描かれています。
ドキュメンタリー『Bloody Daughter』について

子どもの立場からすれば、世界最高峰の演奏をする母親を見る一方で、本番が近づけば強い緊張や不安を抱える母親の姿も、同じ日常の中にあったのでしょう。

もちろん、それが娘たちがピアニストにならなかった理由だと決めつけることはできません。

でも、この話を知ると少し考えさせられます。

子どもが見ているのは、

「親が音楽をしている」という事実だけではないのかもしれない。

楽しそうなのか。
苦しそうなのか。
音楽が人と人を近づけているのか。
それとも、音楽によって誰かがいつも追い詰められているのか。

大人がその音楽とどんな関係を持っているのかまで、日々の暮らしの中では自然と伝わっていくのだと思います。

音楽がある風景

ここまで考えてくると、子どもに音楽をさせるにはどうしたらいい、といった話とは少し違う気がしています。

子どものために、大人が楽しそうに音楽をしなければならない、ということでもありません。

もっと普通のことでいいのだと思います。

好きな音楽を聴く。
ときどき楽器を手に取る。
うまくいかなくて何度もやり直す。
いい演奏を聴いたら「よかったね」と話す。
演奏会へ出かけるのを楽しみにする。

大人は大人で、自分のために音楽を楽しんでいる。

その近くに子どもがいることもあれば、家族や友人がいることもある。

そして、ときには生徒さんから素敵な音楽の言葉を教えてもらうこともある。

そんな日常の中にあるものが、少しずつ誰かの「音楽」というもののイメージを作っていくのかもしれません。

最初に紹介した研究に出てきた、

「将来も楽器を演奏している自分」

という姿も、何もないところから突然生まれるわけではないのでしょう。

身近なところに、音楽をしている人がいる。
大人になっても楽器を楽しんでいる人がいる。

そんな風景をどこかで見てきたからこそ、自分の未来にもその姿を置くことができる。

そういうこともあるのかもしれません。

誰かを音楽家にするためでもなく、上手にさせるためでもなく、ただ生活の中に音楽がある。

その風景が、そのときは何でもないもののように見えても、ずっとあとになって、誰かの中に残っていることがあるのかもしれません。

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